2024.07.14 アイスクライミングにおけるFigure 4についての考察
以下はNHK BS の番組「重力と踊る」(2024.06.22 初回放送)で日本のアイスクライミングの第一人者、門田ギハードさんのFigure 4と呼ばれる技を、Digi2を使って計測と運動解析を行った際に検討した考察です。
二足歩行による移動の特長
地上での二足歩行を効率的に、すなわちエネルギー消費が少なくても可能に、しているは、直立姿勢において(人間の身体が受ける重力によって足が地面を押す際に)地面から受ける反力が、足関節、膝関節、股関節において回転トルクを発生させず、関節の拘束力(構造が受動的に支える力)が骨の表面の法線方向を向くように骨の構造があるからである。
二足歩行は、いわゆる倒立振子でモデル化される力学系になっていて、直立姿勢はその不安定平衡点になっている。つまり、その点は平衡点であり運動として留まり続けることはできるが、ひとたびずれると倒れ始めてしまう不安定性がある。このような不安定性は、移動の俊敏性という点では有利に働く。つまり、二足歩行は、エネルギーを消費しない直立姿勢周りの運動であり、また俊敏な移動を可能にする移動形態であるといえる。
Ice-Climbingの運動について
Ice-Climbingを鉛直方向の移動と、水平方向の移動に分解して考える。Ice-Climbingの鉛直移動に伴う位置エネルギーを獲得するための仕事は、移動形態に依らず身体によってなされなければならない。Ice-ClimbingであってもFree-Climbingであってもこの身体的負担は同様である。これに対して水平方向の移動は、地上での2足歩行と類似点と相違点がある。
両手と両足で壁面と接触して行う移動については、Ice-ClimbingかFree-Climbingか如何に依らず、鉛直方向の負担が大きいこと、両手両足が作用すること許される力の範囲を決める壁面の垂直方向と重力方向が地上での歩行の場合と比べて傾いていること、これらが非日常的である事実が競技の主たる課題を与えていることは共通である。
Ice-Climbingはオーバハングした壁面における移動の時間帯が長いことが特徴である。このとき壁面との接触は壁面に架けたアクスによって両手が壁面に作用する接触のみである。アクスが手を引き上げる力と、二足歩行において足が地面から受ける反力を対比させて類似性を検討する。
平衡点の類似性について
類似性は、二足歩行の直立姿勢と、Ice-Climbingのオーバハング壁面において肩幅程度の間隔で水平に並んだ2点に架けたアクスの握りを両腕を伸ばして手で握り、身体を鉛直下向きに伸ばした状態を想像すると、容易に理解できる。壁面から引き上げられる方向に働く力が手首、肘、肩関節に対して回転トルクを発生させないことは、二足歩行で直立姿勢において床反力が足首、膝、股関節に対してなすことと同様である。このIce-Climbingの姿勢は運動として留まり続けることができる平衡点であることも同様である。二足歩行の倒立振子と対比させるならば、Ice-Climbingのこの姿勢は正立振子(普通の振子)である。
平衡点の相違性について
相違点を、まず移動の観点から指摘する。Ice-Climbingの平衡点は安定平衡点であり、そこから多少ずれてもまた自然な力学現象として(筋力などの制御によらず)に戻ってくることができる。二足歩行においては、直立姿勢が不安定平衡点であることを利用して俊敏な移動を可能にしていたのと異なり、Ice-Climbingの安定平衡点からの移動は俊敏性が伴わないことが想像できる。言い換えれば、そこからの俊敏な移動には筋力の大きな助けが必要になるであろう。
バイオメカニカルな観点からの相違性について
相違点の一つ目は、股関節の構造と肩関節の構造の違いである。股関節は骨盤の寛骨臼というお椀状の窪みが大腿骨頭という球状の部位を包み込む構造である。肩関節は肩甲骨に上腕骨頭が接触する構造で、肩甲骨が包み込むような構造ではない。これによって肩関節の可動範囲が広くとれる効果がある。肩関節の回転する機能を支えているのは周辺を囲む筋である。したがって、Ice-Climbingでオーバハング壁面からアクスを使って両腕でぶら下がり、身体を重力方向に伸ばした状態を保つ場合において、二足歩行の直立姿勢での股関節では主に骨が全体重を支えるのと違って、肩周辺の筋が全体重を支える力を出さなければならない。
相違点の二つ目は、二足歩行の直立姿勢で足首、膝、股関節において重力と床反力によってかかる力は圧縮方向(骨と骨を押し付ける方向)であるのに対して、Ice-Climbingのオーバハング壁でアクスルと使って両腕でのぶら下がる際の、手首、肘、肩関節において重力と接触力によってかかる力は引張方向(骨と骨を引き離す方向)である。肩関節ではこれを筋が支えることは先述の通りであるが、手首関節、肘関節でもこれを支えるのは骨の構造ではなく、靭帯や関節包などの生体組織の弾性変形で生まれる力や筋力を使うことになる。このように安定平衡点であるぶら下がった姿勢を保つためだけでも、筋力や生体組織の弾性力を使わなければならない。
上述のような、Ice-Climbingの特にオーバハング壁での水平移動と地上平面での二足歩行との対比を頭に入れたうえで、門田ギハードさんのFigure 4の技について考察する。
Figure4の目的と移動のバイオメカニカルな解釈
Figure4では、反動を使わず逆上がりをするような動きによって両脚をもち上げ、片脚(例えば右)を反側(左)の腕の下腕部に巻き付ける。これによって身体で結び目を作るような姿勢を取る。これによって左右のバランスは崩れて反側(左)の腕をアクスルが引っ張る力は同側(右)の腕を引っ張る力より大きくなる。時間の経過とともに、左右のバランスをとるために巻き付ける脚と腕を切り替える必要が生まれる。これは大きな上下方向の重心移動は必要ないため大きなエネルギー消費はない。
まず、平衡点の観点から考察する。
Figure4において、両腕でアクスを握り腕と脚で結び目を作った状態で全身が静止状態にある場合は安定平衡点である、上記で検討した全身を鉛直下向きに伸ばしてぶら下がった状態と変わりはない。この場合も正立振子には違いはないが、重心位置が上昇しているため、振子の長さの短い振子になっている点に注目すべきである。安定性の程度が低くなり次の運動に移りやすくなっている。Ice-Climbingの移動を行うという競技の目的にかなった姿勢である。
続いてバイオメカニカルな観点からの考察を行う。
全身で鉛直下向きにぶら下がった状態と、Figure 4で結び目を作ってぶら下がった状態で、両者の違いの主たる点は次の2点である。
(1)脚を腕に巻き付けることで平衡状態を保つことが脚と体幹部の筋力をほとんど使わずに行える。右脚を左腕に巻き付ける際には、左脚も右脚に架けることで筋力をセーブできる。このような安定平衡点を作ることで全身の、特に体幹と脚の筋の、疲労を回復のための時間を稼げることがFigure 4の姿勢を取る目的の一つであろう。
(2)全身で鉛直下向きにぶら下がった状態と、Figure 4で結び目を作ってぶら下がった状態で、両腕がアクスによって引き上げられる方向の力の合計に変わりはない。肩回りの筋の使われ方が変化する点には注目すべきである。2つの状態において、体幹の姿勢からみてアクスルを引き上げる力の方向が相対的に変化する。Figure 4では体幹部は水平か腰が上にある状態になる。Figure 4の姿勢を取ることで、肩周り(背中を含めて)の筋は、肩を引き下げる方向に働く筋を使うことから、肩を引き上げようとする筋を使う方向に変化する。後者は、地上で両腕でそれぞれ重い荷物をぶら下げる姿勢に近い。より日常的でありトレーニングもしやすいかもしれない
最後に、握力についての考察を行う。
片手でアクスルの握りを握り体重の1/2程度の加重をささえる際の握力はどの程度の握力が必要だろうか。この問いの答えは一つではない。(誰もそのような握りを選択しないと思われるが)アクスルの握りを手の親指と他の対抗指でつまむように握り、親指が開く方向に力が加わるように、握りの形状と手の姿勢が選択されているとしたら親指は体重の半分を指一本で支える力以上の力を出さなければならない。
指でのつまみではなく、手のひらで握りを包み込むようにして手全体で圧力をかけて握ることができれば、握りの凸凹などの形状にもよるが、圧力の全体の何倍もの力(正確には握りの形状と各接触点の最大静止摩擦係数を使って計算が必要)の荷重を支えることができる。このとき握る手の姿勢を、指の関節の回転軸の方向が荷重方向に近くなる方向に選べれば、圧力を出すたための指力だけで、荷重を支える力を指で出す必要がなくなるため、小さな握力でも大きな荷重を支えることができる。